
母親のことを思い罪悪感に苛まれる日々を送っている。送っているが、以前より少しマシになった感覚はある。
まだ亡くなっていないが、こうしている間にも一秒一秒と別れが近づいている。
そんな今の状況に慣れてしまったのかもしれないが、以前より罪悪感が弱くなっている部分も確かにある。それはなぜかを考えてまとめてみた。
同じように、親の認知症と、そこからのあれこれに悩む人、特に最期が近づき後悔や罪悪感を感じている人の一助に多少はなると思う。
認知症の親の最期への罪悪感を和らげた要因
今できることをとにかくやる
やれること、今できることをやる。少々無理をしてしまうかもしれないが、それでもやる。多分、やらずにいられないはず。でも、それが良いし、それが大切。
どれだけの時間があるのかわからないが、少しでも時間があるなら、その時間を無駄にしないことが罪悪感を減らすことに繋がる。これは実体験でも痛感している。
葬儀のことをはじめはテンパりながら調べていたが、だんだん段取りが見えてきて、用意すべきものが用意できていくにしたがって、大慌てしなくても良いのかな…という余裕ができる。
この余裕が感じれるのは罪悪感が少しだけ和らいでいる時だったりもした。
忙しくする
日常を丁寧にすごす。これも大切だと思っているが、あえて意図的に忙しくしている。なるべく隙間時間を空けない。考える時間を下手に作らない。
考えることがダメだとか不要だとかは思ってないけど、何もなく、ぼーっとしている時によぎる思考は、思考じゃない。思考よりは反芻に近い。
たいていは、感情が妄想を描かせ、不安を加速させ、その不安をかき消すためにあたふたする思考であって、解決や前進にはあまり貢献しないものが多い。
風呂に入りながらや歩きながら考えるほうが、よほど健全で生産的だったりする。
だから、余計なことを考える暇を作らない。これも大切。
近しい人に腹を割る
近しい人と腹を割って話すこと。これも罪悪感を減らしてくれたと思っている。
誰と何を話すかはある程度は理性的に選ぶ必要性はあるが、事前報告も兼ねて心境を話すことは落ち着きを与えてくれることがある。
自分の場合、親友と親戚と密に連絡を取り合ったが、その中で不安や心配事、後、自分が格好をつけていたな…という今しか言えないような後悔や反省を伝えた。
何か特別なリアクションが相手からあったわけじゃない。でも、話したことが少し楽になった部分がある。自分のような体裁が気になって仕方がない人間には、恐れていた反応が返ってきたわけじゃないってだけで救われた部分があったのかもしれない。
結論として…
元も子もないかもだけど、罪悪感をゼロにしたい気持ちはあるけど、ゼロになることはない。そう思っている。消えることなく、抱えながら生きていく感情の1つだと僕は割り切っている。
可能な限り、今できる事をやりきる。そうすることである程度は消せるかもしれない。それでも残る罪悪感はあると思う。こんな生き方をしてきた自分を恥じる気持ちもある。これを小さくするのはこれからの生き方によるものであって、今すぐになんとかなるもんじゃないと思っている。
そういう意味で、これからの生き方の指針を示し続けるために罪悪感は存在し続けるんだとも思ってる。
罪悪感を感じれるのは、むしろ健全なこと。そう思う。